2023年1月26日
ニュースソクラ 農業ジャーナリスト、山田優
農作業安全で世界最高水準の対策を誇るアイルランド。「農作業安全」を担当する大臣を持ち、近年、死亡事故数を半減することに成功、さらに対策強化に突き進む。一方、日本では年間300人規模の死亡者数を減らす決め手に欠ける。現地の取り組みを調べてみると、両国で違いを生む背景が見えてきた。
「少し前まで毎年20人が死亡していたが、昨年は10人まで減らすことができた」
2022年10月にダブリン郊外でインタビューしたアイルランドの国務大臣マーチン・ヘイドンさんは胸を張った。
1年半前に同国で初めて農作業安全を担当する大臣となった。農業技術開発、新市場開発も兼任で担当するが、「私の中では農作業安全はプライオリティーが高い」と話す。本人が農村を地盤としているという事情に加え、農作業事故根絶に真正面から取り組むアイルランドの熱意が、世界でも例を見ない農作業安全担当の大臣を生み出した。
都会のメディアがあまり報じないから、多くの国民は知らないだろうが、日本では毎年300人近い人たちが農作業事故で命を落とす。坂道でトラクターがひっくり返ったり、収穫機械から詰まった草を引き抜こうとして体が巻き込まれたりする。傷害事故も多い。実は、農作業事故は万国共通の悩みで、労働者10万人当たりの事故率を調べると、改善が著しい建設業や工場労働者に比べ農業は最も危険な業種として各国でみなされている。
場所や環境が異なる野外で作業することが多く、事故の経験を共有することが難しい。農家の高齢化は各国で進むが、農作業事故対策は国によって濃淡が目立つ。
トップを走るのがアイルランドだ。本気さを示すいくつかの事例を紹介する。
アイルランドには日本の労働基準監督署に相当する組織HSAの監督官が、小規模な自営農家を査察し、安全に不備があれば改善命令を出す。畑で動いているトラクターに不備が見つかると、修理しない限り、所有者といえどもその場所からの移動が禁じられる。
農家は毎年、自分の農場のリスク評価書を作成することが義務づけられる。農業機械やほ場などの危険箇所を洗い出し、それぞれの対応策を文書に書き込む。
こうした命令に農家が違反すると、日本円で40万円の罰金か6カ月の懲役に問われることもある。
日本の監督署が農業分野で指導対象とするのは、雇用労働者がいる経営だけだが、アイルランドでは2005年の法改正で雇用者がいない自営農家まで規制の網を広げた。自営農家の安全義務を法律で位置づけているのは北欧などごく一部にとどまる。
アイルランドで労災による死亡事故を重点的に担当するHSA特別捜査官28人の半分が、農作業事故に割り当てられているのも驚きだ。半年から1年以上掛けて一つの事故原因を徹底的に調べ上げる。場合によっては起訴に持ち込む権限も持つ。
日本では死亡事故が起これば警察の出番だが、都道府県をまたぐため、事故の教訓を蓄積しにくい。一方でアイルランドでは国の専門チームが調査に当たる態勢が整っている。
教育面でも取り組みは印象的だ。大学の農学部、実践的な技術を学ぶ農業大学校の学生にとって農作業安全は必修科目だ。名門のダブリン大学では、2年生が半年かけて座学と実習で事故防止の理論を学ぶ。就農する際に役立つのはもちろん、主な就職先である官庁、農業・食品企業からも安全対策の知識を求める声が寄せられている。
日本の場合、大学農学部で農作業安全の授業に単位を与えているところはない。関心のある教員が講義の中で少し触れることがあるぐらいだろう。宇都宮大学農学部の田村孝浩准教授は「日本では農作業事故が多いということを知らないまま社会人になる学生も少なくない」と話す。
ヘイドンさんは「10人の死亡者でも許されないほどの悲劇だ」と強調し、担当大臣として予算の獲得やHSAや農業省にまたがる対策組織の調整に走り回る。昨年末には農業機械のシミュレーターを10台以上導入し、農業大学校などに配置した。実際の畑で体験は難しいが、画面の中なら危険な操作を試すことができる。野放し状態だった農業用の4輪バギーの運転に免許を義務づけることも決めた。
さらに農家の間に根強い「自分は大丈夫」という根拠のない常識を変えるため、農業省傘下の機関で心理学の分野から研究を始めているという。法制度、教育に加え農家の意識にまで踏み込むのは、今の規制だけでは農家の振る舞いを変えられないという判断があるからだ。
ヘイドンさんたちの熱意に支えられアイルランドは農作業事故を減らしてきた。こうした取り組みを見習えば日本でも農作業安全対策が進む可能性はある。だが、実際には難問が立ちはだかる。
アイルランドの手厚い安全対策は、一面で農家に厳しい義務を持ち込むことになる。アイルランドの農家は農薬を使うために厳密な研修会の受講が義務づけられ、店頭で買うにも文書による申告が必要だ。農産物の安全性を保つのと同時に農家の健康を守るためだ。毎年、農場のリスク評価も義務づけられ、定期的にHSA監督官の査察を受けることが求められる。いずれも日本でそうした仕組みはない。
社会全体に農作業安全に対する関心が薄く、農家の高齢化が深刻な日本で、新たな規制の合意を取り付けることは簡単ではない。
しかし、毎年300人の犠牲者を生み出す農作業事故を減らすためには、何らかの仕組みを考えていく必要がある。農水省は1年後に新しい農業基本法を国会に提出する計画で検討を始めている。そうした場を使って、農作業安全対策をどこまで進めるのか議論することが大切だろう。
(ニュースソクラ www.socra.net)