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食×農の現場から
REPORT | 2021年1月1日

農業・農村の新たな価値を提案する「アグリヒーリング」~ 順天堂大学・千葉吉史研究員

「作物を育てることがストレス解消につながる」ことは、感覚的に受け入れやすい。しかし、どのような作業に、どの程度の効果が見られるかについては、なかなか計測しがたい。
順天堂大学大学院では、医学、農業経済学の専門家がプロジェクトチームを組み、2016年から農作業とストレス解消に関する実証実験を重ね、試験的なプログラムを構築できるフェーズに到達したという。
農業法人経営の傍ら、地域の農業コンサルティングを手掛けつつ、順天堂大学大学院医学研究科緩和医療学研究室で研究員として、この「アグリヒーリング」の実用化に取り組む千葉吉史先生にお話を伺った。

千葉吉史先生

千葉先生が経営に参画する美和リーフで栽培する花苗

○感覚的な効果を科学的根拠で確認

「アグリヒーリング」とは、「園芸療法」の一分野となる。
園芸療法とは、草花や野菜などの園芸植物や身の回りにある自然と関わることで、心や体の健康、社会生活における健康の回復をはかる療法のことをいう。
人間のからだは環境変化に対抗するため、状態を一定に保って生命を維持する「恒常性」という性質を持っている。ストレスが加わるとこの恒常性が崩れてしまい体調不良や病気につながるが、植物を五感で感じることで恒常性にかかるストレスを緩和する効果があるということが従来の研究からわかっていた。

千葉先生ら順天堂大学が取り組んでいる研究は、これまで経験則的に語られてきた「園芸療法」、なかでも「農作業」がもたらすストレス軽減効果を、約300を超える実証データを集めることで、エビデンス(数値)として明らかにする取り組みだ。
その結果、見えてきたことは、農作業には、従来の園芸療法の枠を大きく超え、農業・農作業・収穫体験・自然環境の活用なども含め、医療だけでなく介護や福祉などにも応用できる分野があるということだった。さらに、千葉先生は、ご自身のもう一つの活動フィールドである農業や地域への経済的効果創出にも大きな広がりが期待できると力を込める。

従来、ストレスの計測で一般的だったのは、脳波や心拍などの測定やアンケート調査であり、髄液・採血による脳内ホルモンの変化測定は侵襲性が強く、身体に及ぼす物理的な負担や影響が大きかったという。しかし、アンケート調査では数値分析は難しいし、髄液・採血による測定は大きな手間となり、脳波や心拍による測定は、測定行為自体が被験者のストレスとなってしまい、計測にブレが生じかねない。そこで、研究チームが着目したのは、近年、新たに開発された唾液により脳内のストレスホルモンを計測する方法であり、ここからストレス状態を観測することに取り組んだ。

唾液によるストレス計測は、被験者の負荷が小さく、精度の高い計測につながる。この計測方法を用い、千葉先生らは農業に関連するさまざまな作業前後のストレス値を計測し、どのような作業がストレス軽減や幸福度の向上に、どう寄与するかをエビデンスに基づき類型化することに成功した。なお、唾液によるストレス計測法を農業に適用したのは順天堂大学チームが初めてだという。
さらに、研究は進んでおり、被験者に事前にアンケートを行うことで、その人の抱えるストレス量と農村や農業とどのような関係を築いてきたか、どのようなイメージを持っているか、をあわせて把握するようにした。それぞれの被験者が持つ属人的なデータを一緒に集めることで、被験者の属性と関連付けて、どんな人がどんな作業を行うとストレス軽減の効果が得られやすいかを分類・推計できる段階に来たと話す。

○「農作業」がもたらすストレス軽減効果

千葉先生らの研究チームの実証実験結果から、農作業がもたらすストレス軽減の効果の一部をご紹介したい。
最初の実証実験(2017年)では、農業体験と宿泊ができる農場に1泊2日に滞在しながらさまざまな農作業を行い、作業前後のストレスを唾液とアンケートによって測定した。
その結果、以下の3点がわかったという。

  1. まったく農作業の経験のない被験者は、1回の体験でストレスホルモンの値が半減するといった短期間で大幅な効果が現れたこと
  2. 農作業の直後だけでなく、帰宅前までストレスホルモン値の低い状態が続いたこと
  3. ストレスホルモン値の低下だけでなく、「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンの上昇も見られ、「気持ちが落ち着いてかつ幸せに感じている状態」となったこと


また、これらの効果は日帰りでも十分現れるが、ある程度長期滞在することで睡眠サイクルがリセットされ睡眠を改善するという、さらなる効果も期待できたと話す。

作業前後に計測を行う(写真提供:千葉吉史先生)

○アグリヒーリングの研究成果をビジネスに

アグリヒーリングの研究の進展により、これまでアンケート調査が主流であったストレス研究に医学的な根拠が加えられたことで、ビジネスに結びつける途が拓けたと、次への展望に期待は拡がる。

千葉先生は、最近の取り組みとして、新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」の実践の一例として、企業と農村の交流によるワーケーションの提案をあげる。
新型コロナウイルスの感染拡大でテレワークが広がる中、地域活性化のチャンスとして注目した各地の自治体や観光事業者によって、仕事と休暇を結びつけたワーケーションを地方へ誘致する取り組みが相次いでいる。企業側もワーケーションに対する認識は広がっているものの、費用対効果の見える化の点が悩ましく、活用への踏み出しに決め手を欠いているように見受けられる。

千葉先生が提案するストレスケアによる地域ビジネスは、自然環境などの「そこにしかない」コンテンツをベースに、農業や地域の自然・文化体験、人的交流などの営みを含めトータルでプログラム化し、その地域だからこそできる滞在経験を提供することが起点となる。そして、この滞在経験を通じ、それぞれに合ったプログラムを実践することで、ストレス軽減によるリフレッシュ効果をあげるとともに、仕事面での作業効率の向上を目指すという。

千葉先生は、これらの体験プログラムを、個別の旅行コンテンツのように個々人に向けて散発的に提供することと同時に、企業が自社の福利厚生サービスに心のリフレッシュサービスを織り込み、企業活動の一環として、「地域」と総合メニューにより契約するプランを提唱する。

受け入れ地域や農園は体験プログラムを構築。農業の繁閑なども考慮しながら短期〜長期までの受け入れを可能とし、それぞれの体験で期待される効果を提示できるよう準備する。訪れる社員には予め問診を行い、その人に最も適した過ごし方を提案することで、必要なメンタルのリフレッシュに合った過ごし方を選ぶことができる。加えて、それだけでなくストレスが実際に減ったことを数値化して示せることがポイントだ。個々人の“癒し”に加えて、企業損失・企業リスクの縮減の度合いを可視化しようというものだ。
そして、このアイディアは行政のみならず旅行業界などからも注目されつつあり、長野県飯島町では、この千葉先生のアイディアを取り入れ、連携して「飯島流ワーケーション」を導入する計画の検討を進めているという。

千葉先生は、ストレス緩和が数値化され、見えるようになったことで、企業が「アグリヒーリング」の活用に取り組みやすくなると予測する。
統合失調症、うつ病性障害、不安障害といった精神疾患が生む社会損失は、2008年時点で約8兆円と推計されている※。精神障害の労災認定件数が年々増加したことを背景に、今日の企業には、「心の健康づくり計画」 やストレスチェック制度の実施方法等に関する規程を策定することが求められている。しかし、働く人々のメンタルヘルスの悪化は、法規制のみならず、事故を引き起こしたり生産性を低下させたりするといった実被害も大きいことから、企業にとってメンタルヘルス対策はますます重要な課題となっている。
※平成22年度厚生労働省障害者福祉総合推進事業補助金「精神疾患の社会的コストの推計」

今回の研究によって、農業や農村による癒し効果を「見える化」できるようになった結果、企業がアグリヒーリングでの農村・農業との交流を単なるレクリエーションとしてではなく、「企業の福利厚生」と位置づけることが可能になったと千葉先生は指摘する。

○「新しい生活様式」に対応したアグリヒーリング

ご自身も岡山で農業法人の経営を担いつつ、地域の農業経営サポートを続けている千葉先生は、「農業の癒し効果を定量化できたことで、従来の自然やビジネスを取り巻く取り組みを修正・転用し、さまざまなビジネスに活用できるようになった」と指摘。前述のワーケーション以外にもさまざまなアイディアの具現化に向けて取り組む。

<都市部での農業ヒーリング>

アグリヒーリングを提供する舞台は農村だけではない。都市住民が日常的に健康で心穏やかな状態を維持するための仕掛けとして、都市部に農業ヒーリングスポットを設けることで恒常的に農業との縁をつなぐことができる。
貸し農園での農作業はもちろん、職場や病院でプロジェクションマッピングのようなかたちで交流地の景色や空間を視覚的に訴えたり、社員食堂で交流地の食材を提供したりするといった五感に訴える癒しの環境を身近に重層的に構築すること等をイメージする。そして、これを通じ都市農業が農村地域と連携して、地域体験で下げたストレスを都市では上げないようにする地域・都市農業連携を作り出すことが重要という。これにより、生活者のストレスを軽減する環境を、農業を起点に生み出すことができるようになる、と話す。

<ストレスの測定方法の進化>

測定方法に関しても、将来的にはウェアラブルセンサーのようなものが発達することで、人に負担をかけることなくリアルタイムにストレス変化を測定できるようになることを目指して取り組みを続ける※。
唾液による測定は、現在のコロナ禍においては感染媒体のひとつとなるため、検体の収集が難しくなっている。感染予防への配慮もあわせ、これまでの唾液による測定結果とウェアラブルセンサーで継続的にデータを計測することの紐づけを通じ、ストレス解消のアルゴリズムがより明らかになっていくことで日常的なストレス計測・対応への応用が期待される。
https://special.nikkeibp.co.jp/NBO/businessfarm/bizseed/15/?P=4

<労務負荷等の測定への応用>

アグリヒーリングがもたらす効果は、ストレスケア以外にも期待できるという。
緩和医療やターミナルケア、障がいを持った方たちが取り組む作業等の労務適性診断や就労支援や労働の安全確保等へのアプローチ方法としても期待される。この分野でも、ストレスの可視化は極めて有効だとして、それぞれの対象者への利用に向けた研究が進む。

○農業・農村の新たな価値創造に向けた活用

研究が進むさまざまなアグリヒーリングが創出するサービスは、前述のような多くの関係者にとっての課題解決につながるだけでない。千葉先生は、農村の「食べること以外での価値創造」の必要性に焦点をあて、その新たな価値創造に向け知恵を絞る。

足下での人口減少による国内消費の低下が避けられない状況下、これまで長く取り組まれてきた6次化等を通じて食に高い付加価値をつけ収益向上を目指すという対策だけでは、なんとなく心もとない。もちろん、そのための輸出振興も進められているが、農業に作物以外からの収入を得るという選択肢があってもいいはずだ。
つまり、千葉先生は農地や農作業に新たな価値の創造を提案することで、「農業の多面的な6次化」を進めていこうというプランを描く。そして、その6次化+αの種は、地元の農業者や地域住民がよく知っている土地の歴史や今までの営みの中にこそ存在するものであり、それらを組み合わせ、癒しのツールとして最適化することから付加価値が生まれると千葉先生は力説する。

農業・農村はアグリヒーリングに取り組むことで、美しい景観や牧歌的な雰囲気といった情緒的に訴えかける要素に加え、都市生活者に還元する価値を、その土地でしかできない体験がもたらす効果を科学的な根拠を持って提案できるようになり、新たな利益を生み出すことができる。その新たな利益を農業者にきちんと還元できる仕組みを地域で実装することによって、農村の価値はより明確になり、農業・農村の有する資源の見直しの契機となると期待を寄せる。
コロナ禍で”密”回避とストレスをかかえる今だからこそ、農業・農村の持つ価値の再確認と向上に向けた、これからの千葉先生と各地域の取り組みに期待したい。

(中部支部事務局長 内田文子)